黄色い電車とコンビニと

合格発表を待つまでもなく「春は1年先なんだな」と思った。

高校3年間、特に大学を意識することもなくバンドに明け暮れていた俺は、中学までの貯金をすっかり使い果たし、入学時は5本の指に入ってたであろう成績も両手両足を使ってどうにか間に合うレベルにまで落ちてきていた。
特に行きたい大学があったわけではないが、とにかく家を遠く離れたかった俺は無謀にも京都大学を受験、回答欄に何も書けないくらい見事に玉砕していた。

当時A日程B日程なんてのがあって、2年ほど東大京大の併願なんてのが当然のようにできたのだが、その1年目のことである。ちなみに併願は東工大だったが、もちろんこちらも当然のように玉砕した。
覚えているのは一人で旅行するのが始めてでホテルのチェックイン時に何て言っていいのかわからなかったこととか、朝の京都の古い町並みがやけに静かできれいだったこと、目黒の駅が異様に混んでいたこと、昼飯に困ったこと、目蒲線がやけにのどかだったことくらいだ。

さて、浪人しなくてはなるまい。

受験情報というものを全く入手していなかった俺は予備校の受験日なんかも全然押さえていなかったので、たまたま模試の結果で無試験で入学できるという連絡が来ていた駿台の理2コースに即決した。
理2というのは俗に京大・東工大クラスと呼ばれていたコースで、東大理Ⅲを受験する連中が行く理3αや、東大理Ⅰなんかを受験する理1α、それよりちょい下の理1β、などのクラスのさらに下のクラスで、駿台の中では中途半端な位置のクラスである。
有名講師のうちの何人かは理2の授業を持っていなかったりして、わざわざ上のクラスの授業を覗きに行かなければいけなかった。

そんなクラスにいながら一応志望校は東大・京大だと豪語していた。
京大でさえ箸にも棒にもかからなかったのに、落ちたのをきっかけにレベルを上げてどうする?という話もあるが、当時はなんだか強気だったよな・・・。

駿台の校舎は御茶ノ水に固まっているのだが、俺も御茶ノ水の校舎に通うことになった。
住むところはというと、総武線の下総中山という船橋のちょい東京よりの駅から歩いて10分ほどの予備校の寮に入ることになった。
寮は4人部屋で、当然食堂、トイレ、風呂、シャワー、洗濯機なんかは共同だった。
駿台の寮には4人部屋と1人部屋があったのだが、どうせ今年は勉強するしかないんだから、という理由で、敢えて4人部屋を選んだんだと思う。

4人部屋とは言え、部屋の中では一応一人一人のスペースは区切られており、最低限のプライバシーは守られるようになっていた。
ルームメイトは、北海道から出てきていた小池というくそ生意気なとっちゃんボーヤと、茨城から出てきた大関という一癖ある奴、山口から出てきた曽木という気の優しい奴、という3人。
小池は最後まで腹の立つ野郎で殺す一歩手前まで行ったが、大関と曽木とはしだいに仲良くなった。
小池が嫌いなのも3人一緒だったので、部屋に1台だけある冷蔵庫に入っている小池の食い物を3人で食っちゃったりしていた。

当初はまじめに授業にも出席し、予習復習も欠かさなかったのだが、夏休みになるとだんだんペースも落ちてくる。
とはいえもともと田舎もんの俺は東京での遊びもよくわからないまま、初めて丸井でカードを作ったり、アメ横をうろついたり、新宿で映画を見たりと、今思えば全くパッとしない日々を送っていた。
大関と曽木はパチンコにはまっていて、曽木なんかは予備校を卒業する時に精算したら数十万円もってかれていたが、俺は手堅く羽根台で小遣い稼ぎする程度だったような気がする。

だんだん夜型の生活になり、昼過ぎに起きて夕方までボーッとしたりうろうろしたりして夜から始動、朝まで勉強して朝寝る、というリズムになって来る。
当時俺の友はコンビニだった。
寮から歩いて10分ほどのところにセブンイレブンがあり、ほぼ毎日行っていた。
朝スポーツ新聞と弁当を買いに行く。昼起きたら弁当を買いに行く。夜腹が減ったらおやつを買いに行く。
そんな感じだった。

コンビニのバイトのお姉ちゃんが好きになり、告ったこともある。
今から考えるとむちゃくちゃ迷惑な男だ。
告った川沿いの道も、お姉ちゃんが自転車に乗ってたこともよく覚えているが、その時の嫌そうなお姉ちゃんの顔はもう忘れた。
フられてもコンビニに行くのはやめなかった。

一つのコンビニに飽きてくると少し離れたコンビニまで足を延ばした。
勉強に疲れてルームメイトと気分転換に出かけるにはコンビニはもってこいだったし、浪人生が気分転換に出かけるような時間に開いてるところは当時はコンビニしか無かった。
夜の道を缶コーヒー片手にテクテク歩きながら将来の夢、勉強のこと、女のことなどを語る。
今でも覚えているが、当時缶ジュースが100円だったころ150円というちょい高めの値段で、樽の形をした「キリマンジャロブレンド」と「モカブレンド」という缶コーヒーが俺のお気に入りだった。
みんなスエットの上下とかジャージ上下にサンダルという格好だったが、翌年自分に訪れるであろう楽しいキャンパスライフを夢見ていた。

東西線の原木中山という駅の付近まで足を延ばすこともよくあり、そこに行く途中に大豆加工工場のような所の横を通るのだが、そこがやけに臭かったのを思い出す。
そこを過ぎると当時は何道路かわからなかった京葉道路の上を越えて行く。
当時は交通量が少なかった京葉道路を、「これってどこに続いてるんだろうな」とかぼんやり考えていた。
一人で朝を迎えた日はスポーツ新聞を読みながら一人でとぼとぼ歩いた。
朝の京葉道路はどこまでもどこまでも続いているように見えた。

当時CDラジカセなんか買えず、もっぱらミュージックテープを買ってウォークマンで聴いていた。
俺の一生のうちでミュージックテープを買ったのはその1年だけである。
だから何年経っても当時聴いた曲というのは忘れることは無い。

不思議と当時聴いていたバンドは全て解散してしまったことに今気付いた。
レッドウォーリアーズのカジノドライブが入ってたアルバム、有頂天の最高傑作の2nd、全身に衝撃が走ったデッドエンドの1st、フラットバッカー改めEZO、ブルーハーツの1st、こんなのを聴きながら大学でバンドをやる日を思い描いていた。

去年10年ぶりに関東に住むことになり、家から車で行ける距離だったことから当時の寮のあたりまで行ってみた。
思ったより道が異様に狭いことに驚いた。
当時は何十分もかけて歩いた、コンビニへの道、パチンコ屋への道が、車だとあっという間だった。
当時精一杯歩いたエリアなんかほんの10分ほどで全て廻りきってしまった。
あまりにも悲しかったので最も想い出の多いセブンイレブンには入らなかった。
大豆工場の臭いだけは相変わらずだったが、それがかえって哀愁を誘った。

まあ、そんなもんなんだろうな。
俺らはたった1年だけだけど確かにそこにいて、それぞれ苦しみながら大学を目指し、何年分もが濃縮されたような時間を過ごしたという、その事実だけでいいのだ。

ちなみに翌春、俺はさすがに第一志望にブチ上げていた東大は落ち、前年の雪辱の形で京大に入学することになる。
パチンコにはまったまま最後まで復活できなかった大関と曽木は志望校合格を果たすことができず、大関は二浪目に突入、曽木は志望ランクをはるかに落とし、地元の大学の二次募集にもぐり込んだ。

(1999.08.11)