国鉄のおっちゃんの日本酒

海が見れればそれだけで良かったんだと思う。

当時中学生だった僕らは、毎年のように夏休みになるとキャンプの計画を立てた。
津軽平野のど真ん中に位置する弘前市には当然のように海はない。今なら車で1時間も走れば海を見ることができるし、今となって思えば青森沿岸の海はいかにも北の海という感じでどす黒い色をしていて、お世辞にもきれいではないのだが、僕らには「海まで行く」というのがものすごい冒険のように思えた。

クラスメイトに「もんちゃん」という友達がいて、彼が僕らのキャンプの師匠だった。
師匠と言ってもいわゆる一般的なアウトドアの基本を教えてくれていたかどうかは今となっては怪しいが、最小限の道具さえあれば中学生同士である程度快適なアウトドアライフが楽しめる、ということを教えてくれたという点では、やはり師匠である。
彼には歳の離れたお兄さんがいて、お兄さんからいろいろ教えてもらったことを僕らに提供してくれていた。

今はアウトドアブームとかでやたらと設備の整ったキャンプ場が増えて、あらかじめテントサイトの区画が決まっていたり、直火禁止だったり、夜は静かにしろだなんだ、って居心地悪いったらない。
マンションのようにかっちり区画された場所にこぢんまりとテントを張り、みな同じように食事を作る。
虫酸が走る。
しかも直火禁止ってなんだよ、それ?
椎名誠もいろんなとこで書いてるけど、焚き火ができないんだったらキャンプなんて意味ないじゃん?
夜は焚き火の周りで酒飲んで大騒ぎするから楽しいんだろ?
静かに寝てどうすんだよ?

こんなこと言うと自称アウトドアマンと言った連中が目くじら立てて「キャンプのマナー」なるものを延々と述べるに違いないが、そういう連中とは友達にはならないようにしている。
日本人はなんでも他人と一緒にしなければ気が済まないようで、アウトドアなんてもんにも統一規格を作ってしまう。
しかも、たちの悪いことに、日常生活では他人と同じように振る舞うことに没頭するあまり、中途半端に自我のあるバカな連中が、一般市民のよく知らない世界をちょっとだけ知っていることに優越感を持ち、ことさらその統一規格化に熱心になり、挙げ句の果てにその一般市民が普通知り得ない統一規格を振りかざし、アウトドア初心者を蔑視あるいは攻撃する。

初心者が初心者なりに考えてそれなりに手作りのキャンプをするからキャンプは楽しいのであって、初心者の努力する余地を取り除いてしまっている現在の高機能オートキャンプ場など論外である。
道具だけ立派で、車でサイトまで乗り付けて、火もおこさずに立派なツーバーナーかなんか持ち込んで、周りのテントサイトの顔色をうかがいながら飯作って静かに飯食って寝るだけだったら、別にキャンプ場に来る必要なんかない。
日常となんら変わりないだろ?それじゃあ。

実はここまで敵視するのは、今年の夏にバーベキューをやるためにオートキャンプ場に予約をしようとして、そこの電話の応対に非常に腹が立ったというのもあるのだが、ともかく僕らが中学生の頃はオートキャンプ場なんてほんの数えるほどしか無かったはずだし、キャンプ場で入場料を取るなんてのも考えられない時代だった。
当時は水とトイレさえあればそれで十分だったのである。

さて話は戻るが、僕らは中学生だったわけで当然キャンプ場までの足は電車である。
弘前から青森県の西海岸を通り秋田県の能代まで行く五能線という路線がある。僕らはキャンプ場として西海岸の深浦町や岩崎村を好んだので、五能線には高校を卒業するまで何度もお世話になった。
朝五時くらいの五能線の始発に乗る。
すると昼前には目的地に到着するのだが、キャンプ場が駅前にあるわけはないので、当然そこからは自分の寝袋や着替え、食材、テントなんかを担いで歩くことになる。2kmくらいか。
テントも現在のものほど軽くなかったので、かなりきつかった。

料理なんかは自慢できるようなものはしてない。
中学生だというのもあるし、そもそも最初は米を炊くことすら失敗するわけで、米が上手く炊ければそれだけで満足だった。というか、浜辺で飯を食うとそれだけで妙にうまいもんである。
僕らのパターンはとりあえずカップラーメンを持っていき、到着した昼はとりあえずカップラーメンを食う。
そうするとカップラーメンの空き容器で丼ができるので、以後それで飯を食うのである。

米は火にかける前に30分位水に浸しておくというのは体で覚えた。
最初の飯は芯がおもいっきり残っていて食えたもんじゃなかったが、2回目からは上手に炊けるようになった。
蓋は決して開けないこと。少し焦げた匂いがするくらいで丁度良いこと。火から下ろしたらまず鍋を逆さまにして鍋底を軍手をはめた手で叩くこと。
これが一般に正しいのかどうかはわからないが、みんなもんちゃんから教えてもらったりしながら体で覚えたのだ。

米以外の食材はというと、なにせ人力で運べる量は限られているので到着した日の夜飯の材料以外はレトルトものか缶詰だった。
缶詰をお湯にいれて暖めるだけで全然おいしくなるし、シーチキンと醤油だけ飯にかけて食ってもうまかった。
レトルト系もカレーやシチューを始めいろいろ食ったがなんだか妙にうまかった。
西海岸は海岸線まで山が迫ってきており、その結果五能線のルートも海岸沿いとなる。つまりキャンプ場で飯なんかを作っていると列車が横を通るのである。
砂浜に座って飯を食ってる後を列車が通り、客が手を振ってくれる。あたりは夕暮れ。波の音。米の炊けた匂い。

やはりシチュエーションによる影響が大きいのだろう。
家に帰ってからもう一度缶詰で飯を食ってもまずくて食えたもんじゃなかった。

昼間はひたすら泳いだ。
一応海水浴場なのかもしれないが、監視員もいないし、沖にはブイもない。
今から思えばよく溺れなかったな、とも思うが、地元の女の子なんかがTシャツのまま平泳ぎで海に入っていきかなり沖まで泳いでるのを見ていたので、まあ比較的安全だったのかもしれない。
海で長時間遊ぶには顔を出したまま立った姿勢で泳ぐ技術が必要不可欠で、僕らは立ち泳ぎと呼んでいたが、足のつかない場所で話をしながら泳ぐことができた。
最近は海水浴場も足のつかない場所でゆっくり泳げるところが少なくなって、ブイのある場所まで歩いて行けたりしてちょっとがっかりすることも多い。
大抵2泊3日でキャンプしてたので、帰る頃には真っ黒になった。

中3のときに酒の洗礼を受けたのもキャンプ場だった。
いつものように晩飯を食い、歩いて30分もかかる万屋までジュースかなんか買いだしに行き、海岸でだべっていると、おっちゃん(に見えたが30歳くらいだったのかもしれない)に話しかけられた。
おっちゃんらは秋田の国鉄(現JR)の職員で、4,5人でキャンプに来ているらしい。
中学生ならもう酒も大丈夫だろ、暇なら一緒に飲まないか、という話になり、おっちゃんらの焚き火のまわりに遊びに行った。
「ほれ、飲め飲め。」
と白い丼になにやら透明な液体がなみなみと注がれた。

日本酒だった。
しかもぎっちり冷えていた。

あの時飲んだ日本酒の味は忘れない。
こんなうまいもんがあるのか、というくらいの感動だった。
そりゃ丼一気なんかできなかったが、何の抵抗もなく喉にすーっと落ちていった。
僕はその時からの「冷や党」である。
中3の分際で冷や党ってのも生意気だが、その後15年が過ぎたがその時飲んだ酒以上の酒を飲んだことが無い。

それは様々な要因が絡み合って偶然与えられた感動であって、酒の銘柄なんてたぶんどっかのパック酒だったのだと思うが、そういうふとした出来事が一人の子供に与えた影響というのは非常に大きいものであることを考えると、仮にそれが世の真面目な大人から見れば眉をひそめるような影響であれ、僕も子供に対し強い影響を与えられる大人にならねばと思うのである。

事実その夜の出来事は僕らの人生に多大な影響を与えた。
それは日本酒の洗礼を受けたというだけではない。
その後テントに戻った僕らの横に地元の漁師が大勢やってきて、発電器をまわし、サーチライトを煌々と照らしながら、酒を飲み、大声を出しながら、「麻雀を始めた」。

先に騒がないキャンプなんてナンセンスだ、と書いたが、それは程度問題である。
日付も変わろうかという時刻に発電器にサーチライトなど、北朝鮮が上陸してきたのか、とでも思うような騒ぎであり、それは「常識」で判断すべき問題である。

ともかく漁師は麻雀を始めた。
僕らはとても苦痛だった。
仲良くなった国鉄のおっちゃんのところに行った。
「うるさくて眠れないんだ・・・」
おっちゃんは僕らのために行動に移してくれた。
地元の漁師が大勢たむろするテントに乗り込んでいった。
口論が聞こえた。
テントから大勢の漁師が飛び出してきた。
おっちゃんは一人のがたいのいい漁師に殴られた。
国鉄のおっちゃんの一人が、
「おまえら、いいからテントに入って寝とけ。」
と言って僕らを帰した。
僕らは言われるままテントに入った。

次の日の朝、殴られたおっちゃんを見た。
たぶんあの後しこたまやけ酒を飲んだんだと思われるような、ひどい二日酔い状態だった。
お礼を言いたいのか謝りたいのかわからなかったが、とにかく話しかけようとした僕らを、もうひとりのおっちゃんが制した。

僕らはその日を境に大人になったんだと思う。

(1999.09.12)