城南倉庫の日々

弘前は人口のわりには妙にエネルギッシュな街である。

市民の人口に占める学生の割合が高いということもあるかもしれないが、同じように学生は多いが娯楽が少ないという理由で「学生の同棲率が高い大学」で弘前大学を抑えて1位となっている筑波大学のあるつくば市が、学生の存在すら忘れてしまうほど精気のない街であることを考えると、単に学生が多いだけという理由ではあるまい。
結構全国何カ所か渡り歩いて思うのは、その街を印象づけるのは現在の都市機能の優劣というよりも、むしろ何百年もそこに根付いてきた風土がもたらす「匂い」のようなものであるような気がする。

一般に青森県は「雪深く地吹雪のバックに津軽三味線が鳴り響く孤独な農村」というイメージがマスコミでは定着しているようだが、まあある意味冬の時期は実際めっぽう寒いので(笑)、VTRに録ればそりゃあそういう映像が得られるんだろうけど、そこに住んでいる人間は実は明るく、かつ開放的でパワーのある人が多い。
東北出身というだけで口数が少なく消極的かつ閉鎖的なイメージで見られることが多いのだが、それは「地域」ではなく「地形」に依存する風土であり、南国であっても盆地のように他者との交流が少ない場所にある街は何百年もの間に排他的な風土が根付いているし、逆に極寒の地であっても広大な平野にある街は、極めてよそ者に対して友好的である。
弘前はたった10数万人の人口のくせに、東北では「仙台国分町」に次ぐ2番目に大きな歓楽街を持ち、全国で唯一県庁所在地以外に国立大学を持つという、相反する自己主張をしまくっている不思議な街であった。

さて、僕は高校時代までそんな弘前で過ごした。
バンドブームなんかよりはるかに前だったが、中学のころから友達の間でぽろぽろとバンドが出来始めていた。
中学のころは「横浜銀蠅」のコピーバンド(笑)なんかがメインだったような気がするが、高校に入学すると中学のころは銀蠅をやってたような連中が「ジャパメタ」をやり始めるようになった。

「ジャパメタ」とはジャパニーズ・メタルの略であり(笑)、当時は「ラウドネス」「44マグナム」「アースシェイカー」が御三家のように言われていた。
現在でもバンドとしてその形がかろうじて残っているのはラウドネスだけで、44マグナムとアースシェイカーは既に解散している。
知らない人がほとんどなのかもしれないが、アースシェイカーは当時武道館でもライブを成功させており、その後「イカ天」ブームの時に腐るほど出てきたカスバンドとは一線を画していることだけは言っておく。

中学までは長渕(笑)とか当時のチャゲアス(爆)なんかを好んで聴いていた僕は、友達の大地君から初めて聴かされた「アースシェイカー」の「MORE」で体中を貫くような衝撃に襲われた。
「かっこいいだろ?」
「すげえ・・・」
そして既に数バンド存在していた「ジャパメタコピーバンドというジャンル(笑)」に参入することになる。
バンド名は「DISTORTION」。一応「歪み」という意味だが、ギターのイコライザーの名前そのまんま(笑)。
頭悪う~(爆)。

弘前は城下町であるため、地名に当時の面影が残っている。僕らが当時練習場所として使っていたのが「城南」という地区にある倉庫群で、煉瓦造りの結構大きな倉庫で昭和初期にはなんかに活躍していたのだと思われるが現在は空っぽで、バンドの練習用として商売として貸し出しているような所だった。
弘前大学の軽音楽部などもその倉庫を借りており、高校生としてはかなり刺激的な場所であった。

学校が終わると(終わるまでいるところが可愛いが(笑))チャリで城南倉庫に行き、練習したりだべったりするという日々。
三上君という散髪するのがむちゃくちゃ上手な友達がいて、いつも僕は城南倉庫で彼に髪を切ってもらっていた(笑)。当時はいかに過激な髪型にするかというのを競っていたところもあり、いつもツーブロックで内側を白くなるまで刈り上げられ、上をツンツンに立てられるような頭にされた(笑)。

最初はド下手だった演奏も高校3年くらいになるとまあ人に聴かせられるようになり、街のライブハウスなんかでもたまに演奏したりするようになっていた。
僕らのバンドはジャパメタ一直線で、最後の曲はお決まりの44マグナムの「SATISFACTION」。
途中で演奏がドラムだけになりボーカルが客と掛け合いをやる。

「お前ら声が小さいぜ~!」 「イエー!」
「お前らの実力はそんなもんか~?」 「イエー!」
「行くぜ。カモーン、ハ~イ?ハ~イ?」 「ハイ!ハイ!ハイ!ハイ!」
「ハ~イ?ハ~イ?」 「ハイ!ハイ!ハイ!ハイ!」

客席が一体となって叫び、拳を突き上げる。
当時のテープを聴くとボーカルのMCも演奏も超恥ずかしいが、高校時代はそれでよかったのさ(笑)。

バンドを組んでから高校3年になるまでに世の中の事情は多少変わり、いよいよあの「BOφWY 」が出てくるのである。
当然世の中でブレイクする「B・BLUE」なんかよりずっと前だが、友達の間では既に評判になりコピーバンドが出来て来るようになる。
高校時代最も仲の良いバンドで、最後まで文化祭のトリを競い合ったバンドもBOφWYのコピーバンドだった。
今でも「DREAMIN'」「NO. NEW YORK」あたりが僕らの中のBOφWYの想い出だな。

奴らとはライブハウスで対バンもしたし、文化祭出演申し込みのデモテープを制作したときは、メンバーの一人の森君の家の離れに2週間くらい毎日のように通った。
彼の離れにはドラムやアンプ一式とマイク4本くらいとちっさなミキサーが常にセッティングされており、友人関係のバンドが毎日のように入り浸ってレコーディングしていた。
当時僕も「ラフィンノーズ」のコピーバンドと「尾崎豊」のコピーバンド(笑)と3つバンドを掛け持ちしていて、そのバンドの連中もそこに集まっていたし、他に当時の「無理だ!」とか「世田谷たがやせ」とかやってたころの「爆風スランプ」のコピーバンドなんかもいた。

僕らの高校は旧制中学からの伝統でかなり自由な学校で、生徒の自主性を重んじるところがあったから、文化祭も進学校には似合わず丸々1ヶ月くらいそこにパワーを注ぎ込むような力の入れようで、地域柄クラスで一台「ねぶた」を制作してそれを実際に警察に道路使用許可出して運行してしまう。
今更「ねぶた」の説明は要らないとは思うが、紙と針金で作った巨大な張りぼての人形みたいな提灯みたいなもんを引きずって練り歩きながら、太鼓と笛のリズムで踊り狂うという、青森観光のメインとなる夏祭りである。
そんなもんをクラスで1ヶ月くらいで1台作るわけだから、授業も短縮授業になるは、朝は5時から学校解放してみんなで制作するは、授業が終わった後も7時過ぎまで制作を続けるは、という大騒ぎになる。

僕らは電車通学だったので、朝5時に学校に行くためにはチャリで行くしかない(笑)。
今思い出すと無茶してたと思うが、当時は妙に楽しかった。朝は女の子がおにぎりとか作ってくれてるし、そりゃ気合いも入るわな(笑)。チャリで行くと1時間近くかかるから朝4時とかに出掛けてたんだと思う。
次の日があるから帰りも当然チャリ。
で、チャリで帰るその足で森君の家のスタジオに寄る。みんなも集まってくる。そしてレコーディング。

そうそう、文化祭には「テーマソング(笑)」というものがあって、毎年応募された数曲のなかから一曲選ばれて文化祭期間は毎日節目節目にその曲が学校中に流される。
そのテーマソングに僕をバンドに誘った大地君の作詞作曲でオリジナルを一曲作り応募し、見事高3の時のテーマソングに採用された。

応募テープをレコーディングしたのももちろん森君スタジオ。コーラスやかけ声には友達の声がたくさん入ってる。
去年まではフォークで「青春が・・・(爆)」というようなテーマソングばっかりだったんだが、僕らのテーマソングはもちろんジャパメタ(笑)。まあビートロックくらいに抑えてアレンジしたような気はするが。
ギターソロバリバリ、途中には例の「ハイ!」とかかけ声が入る。
それが毎日学校中に流れる我が母校のなんと懐の大きかったことよ(笑)。

実は当時大地君は最後職員室にくわえタバコで入っていき(笑)、
「俺、辞めるわ。」
とのたまい既に学校を退学しており、ということはつまり赤の他人の曲を毎日流していたことになる。

文化祭当日も大地君はお約束通り学校に登場し、僕らのバンドでライブを決行、生徒指導の先生どもが何人も血相変えて現れ、照明落としたりアンプの電源落とそうとしたり散々嫌がらせされたのにもめげず、僕らは夢中で演奏を続けた。
他の高校からの客も大勢体育館ステージまで押し寄せ、拳を振り上げ髪を振り乱し大盛り上がりの中、やっぱ最後の曲はこれしか無いっしょ?

「行くぜ。カモーン、ハ~イ?ハ~イ?」 「ハイ!ハイ!ハイ!ハイ!」

(1999.04.10)